馬鹿なりの幸せ

馬鹿なりの幸せと頭の良い人の幸せは同じだろうか?と考えた事があります。と『馬鹿の定義』で記したところ、まさに今、その思いを抱いていると言う人に会いしました。

 

その時は『そんな事を考えている時点で馬鹿なのだから、馬鹿なりの幸せしか手に入らない』と私は結論付けたのですが、その過程が分からないと。なぜ、馬鹿なりの幸せを考えていたら馬鹿なのかと。

 

聞かれれば隠す程の事でもないのですが、私が貴方を馬鹿だと思っている事になってしまい、それを自ら貴方に説明する事になるのです。それ分かってて聞いてるの?ってお話し。

 

貴方が馬鹿だと思っているその人は、幸せそうなんでしょ?そして貴方は幸せだと感じていないんでしょ?だったら、馬鹿なのは貴方で、幸せそうな人が頭の良い人なんだよ、と。

 

幸せを求めていて、幸せに向かって歩めない人。それが私の中の馬鹿です。

 

『花は芽吹いた土で花を咲かせる』

なんて言葉がありますが、それとは違います。私は花ではなく、足があります。その土で花が咲かせられなければ歩く事が出来ます。幸せに向かって歩む事が出来ます。

 

時には抗えない場面もあります。しかしその物差しは自分が握っているのです。人によっては僅かな事でも抗えないと判断するでしょうし、戦争が起きても諦めない人がいるでしょう。

 

以前、この話をお酒の席でした時に同席者が

『それは主観じゃないか。客観で考えたら馬鹿はどっちだ?』と言いました。

 

幸せは主観ですよね。人から幸せそうだなぁと思われる事が幸せなのですか?

 

人から好かれたいと思っている人は沢山います。嫌われる=幸せではないと考えるのでしょう。しかし〝あの人にさへ愛される事が出来るのなら、他の誰に嫌われようと構わない〟と思っている人もいるでしょう。

 

馬鹿で散々迷惑かけてる癖になに幸せになってんだよ!と人を妬んでいる自分に気が付けないから馬鹿だと思っているのです。

 

馬鹿は単に貶し言葉ではありません。そして頭が良いも単に褒め言葉ではありません。

馬鹿や賢いを善悪に結び付けて話をする人が嫌いです。金や損得の匂いがプンプンします。そう言う私はまだ未熟なので馬鹿は罪だと思っているのですが…。

 

私も間もなく、もう少し成長して馬鹿は罪ではないと思えるようになる気がします。

馬鹿の定義

『馬鹿』ばか

辞書には知能の働きが鈍い事、利口でない事、また、そう言う人、と定義されています。

 

利口でない事、とありますが利口を辞書で調べると頭が良い事、要領が良い事、抜け目ない事、などと出て来ます。馬鹿の対義語は利口と言う事になっているようです。

 

勿論、言葉の意味として説明が必要ならばその通りなのでしょう。しかし実際にはその様な人達を馬鹿とはあまり呼びませんよね?利口でない人を利用する人達はカモという意味を込めて馬鹿と言うでしょうが。

 

皆さんは自分なりの馬鹿の定義をお持ちですか?

馬鹿の定義を持っていない人がとても多いように思います。人を馬鹿にしてはいけない、という思いが馬鹿について考えなくさせているのでしょうか。

馬鹿の定義を持っていないけれど、人を馬鹿にしてはならない、というのは道理が通っていないと思いませんか?

 

私が馬鹿の定義について考える事になった切っ掛けは『馬鹿のバカなりの幸せと、賢い人の幸せって同じ?』という疑問でした。子供の頃、いつも優しい人と不良の子が稀に見せた優しさが同じ?みたいな不満からくる愚痴8割の疑問のようなものです。

その時は『そんな不満8割の考え事をしている時点で私は馬鹿なのだから、バカなりの幸せしか手に入らない』という結論で終えたのですが、なら馬鹿って?と。バカ脱却の為に馬鹿の定義を模索したワケです。

 

私なりの馬鹿の定義は見つかりましたが、それはさて置きまして、自分なりの馬鹿の定義を持つ事はオススメ致します。人それぞれの馬鹿の定義があると思う事で、人に馬鹿にされる事が怖くなくなりますし、馬鹿にされたとしても自分の思う馬鹿でなければ痛くも痒くもありません。自分が馬鹿な事をしている時にはいち早く気がつく事も出来ます。

 

馬鹿の定義を持っていない人達はなにを馬鹿として人を馬鹿にしているのだろうと観察していると、どうやら自分にとって不都合な人達の事を馬鹿としているようです。自分にとって好都合な馬鹿は悟られてはならないので馬鹿にしないですもんね。

雪掻き

関東に住む人々は雪に慣れていません。歩くだけで一苦労、転んで救急車の出動回数が毎回ニュースで流れます。

今年も早速、雪が降りました。柔らかい夜のうちにある程度の雪掻きを済ませても、明くる朝には凍っています。ツルツルですね。

 

夜間に雪を溶かす為に水を撒いている訳ではなく、明けた朝、氷を溶かす為にお湯を撒きます。でも周りの人達は口を揃えて言うのです。

『水を撒いてもまた凍るだけだよ』

東京です。朝です。そんな訳ないでしょう。気温は10℃まで上がる予報です。

 

雪のかさを減らす為に水を撒くのなら無駄かもしれません、分からんけど。多分、無駄じゃないよ。雪掻きと同じ効果は得られる。だって雪掻きしたところの方が氷になってて滑るもの。東京程度の降雪なら、むしろ雪掻きしていない方が有り難い。雪の方が氷より滑りにくく歩きやすいもの。

 

雪深い地方での常識を関東でも当たり前の様に言うようになったのには何か切っ掛けがあったのでしょうか?水不足?下水処理場が追いつかない?

 

仮説として、むかしむかしある関東に、雪が降りました。皆、水を撒いて雪を溶かしました。すると水不足に加え、下水処理場が溢れかえる惨事となりました。

『これは大変だ。何か良い案はないものか』

『日本人は得をしたい気持ちより、損をしたくない気持ちが強い人種です。まことしやかに水を撒くのは損だと流布しましょう。』

 

こんな会議でも行われたのかしら?

んな事はないです。きっとアレでしょう。

 

『寒くてトイレが近くてかなわない』

なんて若い人が言うと、年寄りが言うのよね。

『年寄りの前でそんな事言うもんじゃねぇぞ』

って。アレ言う人はきっと若い頃に言われた事があるんだろうね。それと同じだ。水を撒いてもまた凍るだけ、と雪深い地方から関東に来たばかりの人に言われて、嗜められた気分になった。水を撒いている人を見かけたら同じように嗜めてくれよう、と思った。

多分、コレだと思う。

良い事を教えてもらった。他の人にも教えてあげよう、が2割。無知を嗜められた、同じ事をして気分を晴らそう、が8割。って所なんだろうと思う。だって冷静に考えれば分かるものね。冷静に考えられない気分になってしまったんだろうね。

 

水不足、下水処理場が溢れかえる、この懸念も捨てられないので、お風呂の残り湯を。日中の気温を確認したならバンバン使っていきましょ♪

ゲイが天才を救う

語呂が、耳触りが良い気がして付けただけのタイトルです。ゲイを選んだ事に意味は語呂が良かった以外にはありませんし、本文を正確に表現している訳でもありません。

 

多様性が求められてきている日本ですが、きっかけとなったのはジェンダー論からだった様に思います。愛は地球を救うのリズムに準えて、このタイトルにしました。

目を引くタイトルをつけて読むだけ読ませて、結果なにも得られない。そんな記事を読み悲しくなる事もありますので、あらかじめご説明させて頂きました。まとめから話すと、思わぬ所から望んだ結末が得られる場合もあるかもね、と言うお話です。

 

私は男女平等論があまり好きではありません。男性と女性は大きく違う生物と思っています。また生物学的な話だけでは無く給与や仕事内容などの面においても現状では平等であるべきとは考えていません。

給与面での話で平等化するとなれば『見込み給与』の廃止が必要となります。多くの場合、給与には見込み給与が含まれています。現状どれほどの労働をしたかの過去形での支払いだけでは無く、今後経験に基づき労働力の向上に期待される給与です。

これを廃止してしまうと初任給が著しく低下してしまいます。全ての仕事が歩合給になる事を想像して頂けると分かりやすいかと思います。

 

またジェンダー論で話題にあがりやすい同性愛者の話でも、平等化の障害は保険料などの国税です。医療費免除や養育費補助などの国税が、出生率の向上を見込んでの対策である以上、見込み給与を受け取ってしまっているという現状があります。

全ての仕事を歩合給にすべきと唱えるでもなく、医療費免除や養育費補助を廃止すべきと唱えるでもなく、全て平等にの考えは理に適っていないと感じます。

 

好きではない男女平等論から、ジェンダー論、ハラスメント、多様性と発展して、望んでいる天才が守られる世の中になって行くのなら、安易に否定できる事なんてそうないのかもしれません。

様々な考えを安易に否定しない事が多様性なのですから、それも必然なのでしょうか。

 

なぜ多様性が求められると天才が救われるのかは『20歳過ぎれば只の人』をお読み下さい。

浦島太郎

しっくり来ないお話はいくつかあるけれど、浦島太郎はしっくり来ない程度ではなく、不可思議、謎だと子供の頃から思っていました。

 

亀を助けて竜宮城へ招待され、開けてはならないお土産を持たされ、開けたらお爺さんになる。

昔話に教訓はあっても無くても良いのですが、良い事をすれば良い事が起きて、約束を破ったら悪い事が起きる、そんな教訓として納得している方が多いかと思います。

教訓ありきのお話だと仮定すれば、舌切り雀のように良い青年と悪い青年がいて、悪い青年は玉手箱を開けてしまいお爺さんになる、と対象が2人になると思います。

どんなに良い事をして生きてきても、約束を破るとお爺さんになっちゃうよ、という教訓と捉える事も出来るでしょうか。

 

ではなぜ乙姫様は開けてはならない玉手箱を太郎に渡したのでしょうか。善行を積んでいる太郎にリスクしかない物を渡す乙姫様、詐欺師レベルの悪人と言う事になります。

善人ほど騙しやすいカモです。亀と苛めっ子も共犯者で段取り良く行えば容易く騙せます、という詐欺師養成書、と解釈する事も可能でしょうか。さすがにソレは無しで良いかと思います。

 

詐欺師養成書を無しとするなら考えられるのは、お話には伝承途中で省略されてしまった言葉がある、が最も現実的かと思います。そしてその省略された言葉は

『本当に困った時まで開けてはなりません』

だったのではないでしょうか。

すると教訓は大きく変わってくるのです。太郎は浜辺に戻ってすぐに玉手箱を開けたのではないのです。地上に戻ると太郎はとうの昔に海で死んだ事になっていて、自宅のあった場所はもう何年も前から荒屋となっている、そして困り果てた太郎は浜辺に戻り、玉手箱を開ける。

太郎は未来に戻ってきた。そしてお爺さんになる、つまり本来の姿に戻っただけです。本来の姿に戻った太郎は村に帰り、死んだと思われていた太郎が帰ってきた!と飲めや歌えやの大騒ぎ。老後を幸せに暮らしましたとさ。のハッピーエンド。教訓は

『楽しい時間ってあっ!という間だよね、同じ時間軸だなんて信じられない』

教訓というよりあるあるネタです。

 

昔読んだ本の登場人物が言っていました。

『真実とは最も矛盾の少ない仮説である』

私の中ではこれが浦島太郎の真実…、

 

ではないんですけどね。多分、私の想像ではとても悲しいお話。100%想像ですが。

 

幼い子供がいる母親が漁師の夫を海で亡くす。その地方では悪い事をすると海の神様が怒って海の底へ…、の様な伝承がある。なので幼子は母に尋ねる。『お父さんは悪い事をしたから神様が怒ったの?』そして母親が幼子に聞かせたお話。

 

なのでハッピーエンドでなくてはならないのです。

20歳過ぎればただの人

十で神童十五で才児二十歳過ぎれば只の人
とうでしんどうじゅうごでさいじはたちすぎればただのひと

日本のことわざです。
主に親バカな様子を嗜める時に使われる様です。もしくは天狗になっている少年を嗜めたりなど。
『いくら天才ともてはやされていても、20歳すぎた頃には何の役にも立たないよ?』
の様な解釈が一般的なのかと思います。

私の解釈は少し違います。個人の勝手な解釈ですが。
海外では『天才が秀才を殺し、凡人が天才を殺す』と言った意味のことわざがあるようです。もしくは『多数決というナイフにより天才が殺される』などと和訳されているそうです。
こちらの方が私にはピンと来るのです。
十歳の少年は紛れも無く天才だった。しかし少年の社会の中では異端児扱いを受ける。多数決では自分の主張は通らない。連帯責任という言葉で罪の無い者が罪を受ける。
そんな社会で天才であり続ける事に意味を見出せなかった少年が、周囲と足並みを揃えた方が賢いと判断し凡人と成り下がって行く。
そんな日本の風潮を皮肉を込めて出来たことわざ、だとしたら悲しすぎますか?

多様性が求められてきている現在です。いつか私の様な解釈が払拭される日もそう遠くは無いかもしれません。

感性の共有

感性を共有する方法はないでしょうか。

私は珈琲が好きです。無糖派です。

加糖派の方、苦味が苦手な方に、私が感じている『美味しさ』は伝える手段がないでしょう。


〇〇を越える作品は出てこない、

なにその服、超絶ダサい、

あんな人との結婚、決して許しません!

パクチーなんてカメムシじゃん、

人生半分損してるよ〜、


感性を共有する装置とか、そのうち開発されるのでしょうかね。もしそんな装置が開発されたら、誰の感性を共有したいですか?


結婚相手が自分をどの様に想っているのか、

知りたい様な知りたくない様な。


私はプレゼントが好きです。送る事も頂く事も。

あの人が好きそう、あの人に似合いそう、

貴方の事をこう解釈しています、の意思表明であったり

私が好きな物を伝えたい、であったり。


感性の共有が出来ないから、自分を理解してくれる人に出会えたり、同じ物を好きな人と会うと嬉しく思うのでしょうか。